海を歩くということ
-私と友人たちが乗っているバス 地球のためのメディスン-
子供の頃,親父が撮ってくれた可憐な写真がいくつもあって,私は道に積まれたセメントに混ぜるための小さな砂山の上でスカートをはいてタンポポをいじったり,森の井戸の石蓋を机にして兄弟に何か教わりながら遊んでいたようだ.家の前の石垣の間には,ヒロクチコギセルというロールパンのような蝸牛がひっそりと暮らしていて,彼らによく話しかけていた.
家の裏がお宮の森だったので,そこが一番の遊び場で,ゴザを広げてみんなでくつろいでいるような写真もいくつかある.夏は,茶の間の窓の外にゴザをしいて,そこで涼んでスイカを食べたりしていた.
昆虫が好きだったが,彼らは私と遊んでくれていたのだなと,やっと分かるようになった.彼らはある日,フラッとやってきて,私の人生に手紙をはさんでいった.ドウガネブイブイとかクワガタムシとかデンデンムシといった「メッセンジャー」が,あまりにも分かりやすく表現された「神々のいろんな思考」を持ってやって来た.彼らは動く宝石であり,必要とされていない完成された芸術そのものだった.
海には貝殻が落ちていて,それは片方であることや,螺旋という思想を語っていた.海は恐ろしく,私たちの暮らしを外界から隔て,そして護っていた.私たちは護られた世界で成長して,海という正直さを身に付けて船に乗って外へ出て行った.海という言語を持っていることで,我々はどこでもやっていけた.船に乗るというのは,この世界で人間が生きるということそのものだ.自然と相対することについて,私たちは態度を決めなければならない.誰もが人間そのものという心細い「肉の船」に乗っていることを知って,我々はたくましくなり人に寛容になる.生き残るということが,いかに難しいかを知っているので.
灼熱の砂漠であろうとネット社会であろうと,人間が生き残るのは大変なことだ.我々は世界とコミニュケーションせねば生きていけないので,ネット言語でもなんでも食べる.心が貧しくても生き様がかっこ悪くても,明日まではなんとか生きようとしているのだ.生物の進化は,そういうやりくりであって,全てが涙ぐましい.
子供たちが,この世界を愛そう愛そうとノックするのを,私たちは見る.愛すること,コミニュケーションすることでしか,この世界は続いていかないのだから.
投稿者: 由
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