これは,2004年2月13日の,片瀬西浜での打ち上げ。
この年はミゾガイが多い。カバザクラが大発生する年や,サトウガイ,ワスレガイ,ダンベイキサゴが多い年などがあって,地道に拾ってデータを取るとおもしろそうだけど,やってない。毎月2回くらい散歩するようにしないと駄目かな。
私がやりたいのは,砂浜を5mくらい掘って,昔の打ち上げ貝類相を復元して,今と比較すること。それで,コゲチャタケとかシチクガイをごっそり得て,もううっとりしちゃって,きっと論文は書かないだろうな。
それから,潮汐や風や波浪の具合で,貝の打ち上げが多い時,少ない時があるので,そういう「打ち上げ物理学」をやるのも夢の一つ。貝の打ち上げが多い海岸,少ない海岸,微小貝がたくさん打ち上がる海岸などの,物理的解説が欲しい。
のように,研究したいテーマはたくさんあるのだけど,もう今生では根性がないので無理っぽい。誰かやってください。
湘南海岸では,毎日毎朝毎夕のように,ゴミ清掃車が打ち上げ帯の漂着物・ゴミを片付けていくので,打ち上げ貝を拾うのもタイミングがあって大変。莫大な税金が使われていて,雇用もあるので,なんとも言えない。
「ゴミ」のない海岸にするというビーチ・クリーン(海岸清掃)という所業が,私にはあまり理解できない。「ゴミ」がたくさん打ち上がっていることで,人が個々に反省すればいいと思うんだけど,そうじゃなくて「きれいな海岸」にするために「善意ある」人がゴミを片付けてしまう。そうすると,人々は自分のゴミ生活も反省しないし,ああこの海岸はきれいだと間違った安心をすると思うんだけど。
ビーチ・クリーンでは,しばしば打ち上げられた海藻や有機物まで「ゴミ」として片付けてしまう。そうしたものが,堆積・腐敗して,また微生物の棲家になって,海洋生態系の豊かさを支えるというのに。
塩生湿地では,板やダンボールや発泡スチロールなどの遮蔽物は,生物の重要な隠蔽物・棲み家になっている。オカミミガイ類などは,ビニールの肥料袋の下が大好きなのだ。だから,なんでもかんでも「ゴミ」として処分するのは,ほんと生態系への無理解なんですけど。
昔の浜辺には,いろんなゴミが堆積していて,生態系の循環を作り,ゴミは我々の友達だった。流木や竹をバットにして,拾ったボールで野球をした。貝割りっこをした。プラスチックの人形,美しい模様の釣りの浮き,素敵な色と形の瓶,陶器のかけら,家具,卒塔婆,動物の骨。漂着物のカオスの中で,自分を呼び止めるものを探す。私には,その中で貝殻が神様からの最高の贈り物だった。
漂着物はまた,漂着神であり,少那彦名命から続く「寄り物」「異邦からの渡来者」である。そうしたものを「敵視」することは,外来者への優しさの欠如であり,排他性に他ならない。
とにかく私は,「ゴミ」という言葉が気に食わない。そんなものは,人種差別と同じだ。とにかく私は,「きれい」という概念が気に食わない。そんなものは,美への根源的な無理解だ。これは野蛮人である私の個人的な嗜好で,全く賛同を求めるものではない。ただ,いくつかのヒントはある。*美は乱調にあり,などなど云々。
とは言っても,間抜けでお人良しの魚や亀や鳥が,漂着物に引っかかったり,飲み込んだりするので,ビーチ・クリーンは,生物に優しく,とてもいいものでもある。長年,その活動を続けている人たちを,とても尊敬している。
でも私はそのままの世界が見たいし,そこで自分が生きることを考えたい。観光客や傍観的住人のために現実を隠し,偽りの世界を提供すべきではない。
私が言いたいのは「エコ」というのっぺらぼうの幻想に従うのでなくて,全てはザラザラとした微細で痛い現実の中で,考えて行われるべきだということだ。
宗教はのっぺらぼうの幻想(教義)を広め,対立を繰り返す。
モハメッドやイエスや仏陀,そして隣にいる人の,ざらざらした手の皴を本当に感じるしか,救いはないと言うのに!!
私はとにかく「ゴミ」という概念と言葉が嫌いだ。だって,「お前は,この世に必要ないないんだよ」と言われているようで。
コンビニ弁当の容器にしてもだよ,世話になっておいて,よくもゴミなんて言えるもんだ!!
「高く鼻つく磯の香に 不断の花の香りあり」(我は海の子)
これは「ゴミ」である海藻・海草が,山のように日本の海岸に積もっていた時代の歌。
海藻・海草が打ち上がって腐って「高く鼻つく磯の香」を放つ海岸は,汚染や磯焼けなどで,今の日本では珍しくなってしまった。
「高く鼻つく」=「臭い」ことも,昔は美しき誇りであったのだ。
と云うわけで,私は臭く,ださく,うざいのが自慢です。
それだけは,誰にも負けまいぞ。
投稿者: 由
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