というわけで,湘南でのハマグリ・イベントも無事終わって,ありがとうございました。
この写真からも分かるように,サウンド・マーケットはとても落ち着いたいい店で,「大人の隠れ家」として有名です。
つまり「大人の秘密基地」というわけです。いや,それは違うか。
世の中には「フリーメーソンの隠れ家」とか「ダンゴムシの隠れ家」とか「反捕鯨運動家の隠れ家」とか,いろんな隠れ家があります。昨年の事業仕分けでは,「同じ隠れ家なんだから一緒にしてしまってはどうか」という提案もありました。もちろんその方がいかにも合理的です。それで来年度の予算に「公立 みんなの隠れ家」の設立が盛り込まれたのは記憶に新しいところです。そこでは,後ろめたいことや何のストレスもない人も,自由にのびのびと隠れることができます。
もちろんそんな,ザリガニとタニシとスッポンが半分しかない水の中でガサゴソいってるような子供のバケツみたいな隠れ家はごめんだと思う人もいるかもしれません。しかしながら,合理化というのは,おおよそそのようなもので,個人の嗜好や性癖などを無視することでしか成り立たないものなのです。これで「タニシとしゃべるくらいなら,家にまっすぐ帰るわ」という人が増えれば,この政策は大いに成功したといえるのではないでしょうか。
それはともかく,公共事業の無駄,税金の無駄使い,ということが声高く言われて,世の中は「無駄」を親のかたきのように敵視しつつあります。人間というのは,殆ど無駄のかたまりであるのに,無駄は駄目だというわけです。これはもう一人一人に,あなた死になさいと言ってるようなものですから,日本もここまで来たかという感じですね。無駄のない世の中というのは,潤いのない世の中です。
公共事業の無駄と,無駄という豊かさの区別もつかないようでは,おちおち呼吸もできないというもんです。自殺者を大量生産しているのは,こうした合理主義・成果主義・目的主義に他なりません。
こんな自分のような無駄なものを,地球において生かしているから,神様はスカッと爽やかでかっこいいわけですよ。それに対して生きる意義とか意味とか,社会奉仕とか言い出すのは,もうその時点で神様的にはアウトだと私は思いますけどね。だから,宗教は神様的には,もう殆どアウト。バッターボックスに入った時点で負けです。生きるヒントくらいに考えてないと,ねー,未だにそれで戦争してる人たちもいるから。
私は歴史的な負の遺産は何かと聞かれたら,いろんな宗教の聖典を真っ先にあげるでしょう。その最大の欠点は,真実を定義していることと,他の生物が読めないということです。
それで私は,九州の実家にこもっていて,リグレッツを応援するためにと,ひたすらビールを飲んで,このような芸術を作っていた.無駄の王様?
この作品のタイトルは「アンディー・ウォーホルの思い出」.
投稿者: 由
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